属性攻撃の日記

みなさんの好きな属性はなんですか

殺人が違法なのは悪人に好都合である

現代社会で殺人は重大な犯罪、違法行為だ。

これは一見すると善人の身の安全を守り、平和な社会秩序を維持するための法に見える。

 

だが私は最近ふと考えた。

殺人が違法なのは、むしろ悪人に都合が良いのではないか?

 

 

善人を殺すのは悪だが、悪人を殺すのは善

これがまず私の前提の考えとしてある。

私は悪いやつなら殺していい、いやむしろ殺すべきだとさえ思う。

 

悪い人間がいるからこの世はこんなにも辛く苦しく理不尽なのであろう。

悪い人間がいなくなればいいのに...いつもそう思っている。

 

以下に述べる私の主張では、

善人を殺すのは合法非合法問わず悪である。

悪人を殺すのは合法非合法問わず善である。

として扱っている。

それを踏まえて読んでいただきたい。

 

 

善人と悪人、そして6種類の人間

まずこの議論をするにあたって善人と悪人、

そしてそれをさらに細分化した6種類の人間を仮定してみる。

 

善人:悪ではない人。基本的に人を殺さない。殺すとしても対象は悪人のみ。

悪人:悪い人。人を殺す者もいるし、その対象には善人も含まれる。

 

そして善人と悪人を細分化してみる。

 

善人

①殺人が合法でも違法でも、決して人を殺さない善人。

②殺人が違法なら人を殺さないが、殺人が合法なら悪人を殺す善人。

③殺人が違法でも、悪人を殺す善人。

 

悪人

④殺人が合法でも違法でも、決して人を殺さない悪人。

⑤殺人が違法なら人を殺さないが、殺人が合法なら善人も含め人を殺す悪人。

⑥殺人が違法でも、善人も含め人を殺す悪人。

 

以上のような6種類の人間を仮定してみた。

これを踏まえ次の話に移ろう。

 

 

殺人が合法になった場合の世界

その世界において行動が変わるのは

②殺人が違法なら人を殺さないが、殺人が合法なら悪人を殺す善人。

⑤殺人が違法なら人を殺さないが、殺人が合法なら善人も含め人を殺す悪人。

の二種類である。

 

まず②が悪人のみを殺してくれるようになる。

これは素晴らしいことだ。

悪人は排除されるべきであるが、現代社会では「殺人が違法である」という法に守られて排除されない。

たしかに法を犯せば法によって裁かれるし、それで十分な場合も多い。

だがあまりに軽い裁きしか受けない悪人もいる。

裁きを逃れる悪人もいる。

法で裁くのが難しい悪人もいる。

そうした悪人を排除する機構が現代社会には備わっていない。

殺人が合法化されれば、より悪の排除は正しく行われるようになるだろう。

 

次に⑤が善人を殺すようになることについて。

これは殺人が合法になった場合起こる負の影響であろう。

しかし⑤のようなタイプは、何かしら十分なメリットがなければ人を殺さないであろう。

そう考えると仮に殺人が合法化されたとしても、人殺しを行うのは少数のはずだ。

また、②が悪人を殺すようになった社会においては、殺人を行うのはむしろ殺人が違法だったころよりもリスクが高いと考えられる。

殺人が合法であっても、それは決して、誰も人の死の原因を調べないというわけではない。

殺人がバレないというわけでもない。

必ず善人によって悪人は追い詰められる。

そして善人を殺した報いで最後は殺されることになる。

よって殺人合法化によって⑤が善人を殺すという負の影響は極めて小さいものと考えられる。

 

そう考えると殺人合法化によって殺されるようになるのはほぼ悪人だけだと言える。

そして逆説的に、殺人が違法な現代社会は悪人有利の社会だと言える。

 

 

良くなる一方の世界がくる

結局のところ殺人が重大な違法行為である現代社会では、

殺人はデメリットが大きすぎるため、余程のことがない限り何をしても殺されないのだ。

だから悪い人間がたくさんいる。

 

実際、つい最近に悪の度が過ぎて殺された安倍晋三氏もいるが、

彼も殺されはしないとタカをくくっていたのだろう。

悪によって人生を奪われ、失うものの無くなった、

無敵の人となった善人によって殺されることになったが。

 

殺人が合法になり、悪人が殺される社会になれば、そのような者は即排除される。

そして新しい悪人の発生も減っていくだろう。

みんな悪いことをして、人に憎まれたり恨まれたりして、殺されるのを恐れるからだ。

 

みんなもっと人を思いやるようにもなるはずだ。

人を思いやる者が増えれば、それもまた悪の抑制につながる。

また悪がいないということは公正ということだ。

公正な社会は、健全な人間を育むだろう。

 

どんな悪人だって最初から悪い心に染まっていたわけではないと思う。

様々な要因から影響を受けて悪になったのだ。

人に蔑ろにされた、酷いことをされた。

自分は真面目に生きてるのにあいつは悪いことして生きてる。

そんな思いが「俺だって悪になってやろう」という思いを生むこともある。

 

そしてどんな善人だって悪人になる可能性はあるのだ。

でも人に思いやられ、公正な社会で毎日を過ごせれば悪の心を抱くことは減るはずだ。

悪人が殺される社会においては善人のみならず、

「悪人になるかもしれなかった者」も救うことができる。

 

 

 

以上。

殺人が合法化された世界を見てみたいものである。

 

 

就業中(授業中)の居眠りの是非

今日、職場で居眠りをしていたことについてお説教をされた。

居眠りで説教なんて高校一年生以来くらいだと思う。

 

まあ今日は素直に謝って受け入れたが、少し考えてみたところ、

実は就業中やあるいは学校の授業中の居眠りって多少は許されるのではないか?と思った。

 

眠気は生理現象である

まず考えたのが眠気とどうしようもない生理現象であるということ。

眠気というのは喉の渇きや尿意・便意と同じである。

就業中や授業中も水分補給やトイレは許されているわけなので、

居眠りもそれと同様に許されるのではないか?

 

居眠りが一切許されない、というのは「睡眠=怠け・サボり」であるという、

間違った感覚ではないのか?

 

「昼に居眠りしないように夜にしっかり寝ろ!」というのは至極もっともである。

それが健康上一番良いし。

だが、睡眠時間が足りず昼間に寝てしまうのもまた仕方ないこと、

多少は認められるべきことではないだろうか?

 

睡眠は生命維持のために不可欠であり本人の意思でもどうしようもない。

人は寝ないとマジで死ぬのである。

 

 

眠気はパフォーマンスを下げ、睡眠はパフォーマンスを上げる

自分の職場ではミスがあるとミスした者に報告が来る。

私もしばしばミスをするので、報告がくることがある。

そしてミスした作業をしていた時間も確認することができるのだが、

その時間というのが私の場合、眠くなっている時間に集中している。

(ちなみに私の場合はお昼ご飯の1時間後〜2時間後くらいがめちゃ眠くなる。)

 

このことから私は眠気は作業のパフォーマンスに強い影響を及ぼすと考えている。

眠くても寝たら怒られるので、寝ちゃダメ...寝ちゃダメ...とウトウトしながら

頑張るわけだが、やっぱり全然集中できてないので、スピードは落ちるし、質も下がる。

 

しかしたまに監視のスキを見て、ほんの少し居眠りするだけでも大きく眠気が消え、

集中力が改善されるのである。

 

よって多少の居眠りを認めることは、むしろ現場の生産性を上げるのではないか?

学校の授業だったら授業の理解度が上がるのではないか?

 

 

調べてみて出てきたエビデンス

その①:厚生労働省の出している「健康づくりのための睡眠指針2014」。

とにかく睡眠は大事だから寝ろということを言っている内容なのだが、

特に見てほしいのは第8条の最後。午後の眠気を改善するのに昼寝が効果的で、

午後の早い時間に30分程度の短い昼寝をするのが作業能率改善に効果的としている。

https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/0000047221.pdf

 

その②:NASAの行った調査

これはちゃんとしたソース元が見つからなかったのだが、

NASAの行った実験によると、宇宙飛行士に26分の仮眠を取らせたところ、

認知能力が26%アップ、注意力(集中力とも)が54%も上がったそうだ。

 

まあ私など5分居眠りしただけで相当頭が冴えるので、

30分ほどちゃんとした仮眠をとればかなりその後の仕事の効率は上がるだろうなと思う。

 

 

この記事は以上。

私の職場も30分昼寝を認めて欲しいものである。

もちろん退勤時間はそのままで昼寝中も実働時間扱いで給与発生で。

 

 

 

 

最近、やりたいことが増えてきた。だが、もうすぐ忙しくなりそう。

最近やりたいことが増えてきて、時間が足りなく感じるようになった。

暇で退屈な毎日よりは良いかもしれない。

以前はそんな感じだった。

 

やりたいことが増えてきたなら、やればいい。

しかしながら、実生活はもうすぐ以前よりずっと忙しくなりそうなのである。

これは困った。

 

とりあえず今の自分がやりたいことについてまとめてみた。

 

今やりたいこと①:ブログ執筆

まずこのブログ。

自分の考えたことをなんとなくまとめたくて始めた。

自分の書きたい文章を書く、という作業には充実感があると思う。

 

たとえ自分自身の考えていることであっても、丁寧に文章化しようとすると意外と難しい。

曖昧なところがあったり、考えを適切に表現する良い言葉が浮かばなかったりする。

そうして試行錯誤しながら文を書くと、自分の考えが洗練されてゆく気がする。

 

べつに人の考えというのは曖昧でもいいし、洗練されてるから正しいというものでもないが。

考えを洗練していくことで、新しく見えてくるもの、わかってくること、みたいなものもあると思う。

 

あと、書いた文章を誰かに伝えるというのも面白い。

それをしたくてブログという媒体を選んでるわけだが。

誰かに読んでもらって、読んだ人にも共感してもらったり、あるいは反発してもらったり、何か考えてもらえたらいいなと思う。

自分も人の書いた文章とか読んでこれはわかる、それは違うとかあれこれ考えるの好きなので、そういう人に伝わったら嬉しい。

 

話は変わるが、学校の作文といえばめんどくさい宿題ランキング上位だった。

自分だけではなく、多くの人がそうだと思う。

 

あれは「書きたくもない文章」を書かされるからつまらないのだろうなと思う。

興味の無い本を読まされて、結果、何も感じなかったのに感想文をかかされる。

これは面白くないだろう。

 

「文章を書く力」は確かにあの宿題のおかげである程度養われたと思うが。

べつにもっと好きなことを書く宿題でもいいのではと考える。

 

まあそんなわけでやりたいことその1はブログ。

まだいろいろと書きたいことは残っている。

一つ記事書くのにまあまあ時間かかるので、もっと時間が欲しい。

 

いずれある程度書きたいことも書き切ると思うので、それまで頑張ろうと思う。

休み前日の夜にでもゆっくり描こうかと思っている。

 

 

今やりたいこと②:イラスト制作

イラストなんて以前は全然興味なかった。

見るほうは好きだが、描くのはめんどくさいと思っていた。

 

だが、描ける人への憧れも同時にずっと持っていた。

そのくせこれといって努力もしてなかったわけだが。

 

しかし最近、なんとなく暇つぶしに好きなゲームのキャラのイラストを描いてみた。

今までも何度かイラストを描こうとしたことはあったのだが、大体めんどくさくなって挫折していた。

しかし今回はなぜだがけっこう筆が乗って、飽きずにけっこう拘って描いたし、初心者にしては上手く描けたとも思っている。

こんな感じ。

気に入ったのでTwitterのアイコンにもした。

 

好きな作品のキャラを良い感じに描けるとかなりの満足感があることを知った。

もっといろいろ描きたいキャラも浮かんできた。

 

あと、せっかく描いたしだれかに見てもらいたいと思って、ハッシュタグなんかつけてTwitterに投稿もしてみた。

するとそこそこ反応があったのも嬉しかったことだ。

やっぱり自分の描いた絵をだれかに見てもらえたら嬉しくなるものだ。

 

ただ、イラストもかなり時間が必要。

ブログよりもずっとかかる。

有名なマンガ家やイラストレーター、アニメーターたちのめっちゃ上手い絵はそうとう時間をかけてるのだろうなあとよくわかった。

 

上手くなってくれば多少スムーズに描けるようになるのだろうが、まだ効率的なアプリの使い方もわかっておらず、すこぶる非効率な描き方ばかりしている。

もっとたくさん描いてレベルアップしたいものだ。

 

けっこう集中して時間かけないとダメなので、毎日・毎週、一定の時間を確保して、

計画的に描いていくのがいいだろうか。

 

 

今できてるけど忙しくなるとしんどくなるかもしれないこと①:アニメ視聴

私はアニメが好きなのでよく見ている。

ちなみに執筆時点で放送中のアニメで観ているのは、

「地獄楽」「推しの子」「マイホームヒーロー」「機動戦士ガンダム水星の魔女」

の4作品である。

どれもとても楽しめている。

 

あと、昔放送されて最近一気見したものだと「響け!ユーフォニアム

は素晴らしかった。

 

アニメというのは実に手の込んだ創作物だと思う。

まだまだいろいろと面白いアニメは出てくると思う。

 

だが、忙しくなってくるとアニメ視聴もしんどくなってくるかもしれない。

まあOPとED、CM飛ばせば一本20分なので、たぶん大丈夫とは思っているが。

 

食事中とかにながら見するのが効率的な視聴スタイルがいいかもしれない。

少し集中して観にくくはなってしまうが。

 

 

今できてるけど忙しくなるとしんどくなるかもしれないこと②:マンガを読む

マンガはアニメ以上に好きかもしれない。

なのでいろいろと読んでいる。

 

アニメと比べると求められる時間の量は圧倒的に小さいが、本数が多いのが悩ましい。

ちゃんと読みたい作品を読み切るには今まで通りではダメかもしれない。

 

時間の確保としては電車だろうか。

私は今、電車ではスマホを見ない主義なのだが、これからはスマホでマンガを読む必要が出てくるだろう。

 

 

今できてるけど忙しくなるとしんどくなるかもしれないこと③:崩壊学園

私は「崩壊学園」というソシャゲを熱心に遊んでいる。

初期からしばらくやってて、その後かなり長い期間引退していたが、最近復帰。

そしてかなりハマった。

 

まず崩壊学園はソシャゲなので毎日少しずつやるというプレイスタイルが基本だ。

それくらいならなんとかなるとは思っているが、問題はたまに時間をかけて攻略したい、

難しいイベントがくることなのだ。

あととにかくたくさん周回することで得するイベントもたまーにくる。

 

そのようなイベントにも今まではたっぷりと時間をかけてこられたが、これからはしんどくなりそうである。

私はけっこう崩壊学園廃人なので、ゲームに時間をかけられなくなると不満がたまりそう。

 

ガチるのを止めるという選択肢は今のところない。

忙しくなったあとも、時間は優先的に使うことになると思う。

 

マンガとは違ってこちらはあまり電車内などでやる気にはなれない。

自宅や外の休憩時間など、ある程度ゆっくり落ち着ける環境で遊びたいと思っている。

 

 

今できてるけど忙しくなるとしんどくなるかもしれないこと④:ハースストーン

こちらは崩壊学園ほど熱心にはやっていないが、そこそこ遊んでるPCゲーム。

一時期はかなりガチっていて、ランキングで相当の上位に入ったこともある。

 

最近はあまりモチベーションないのだが、それでも暇があるとついやっちゃう。

一種の中毒かもしれない。

 

まあなんだかんだ好きなゲームなので、まだまだ付き合っていきたいと思うのだが。

忙しくなるとどれだけ遊べるかわからない。

 

正直これに関してはほとんど遊ばなくなる可能性もありそう。

アップデートで新しいカードみたり、パック剥いたりするのが一番の楽しみ、

みたいなところはあるので。

 

忙しくなったらかる〜く付き合っていこうかと思う。

 

 

 

以上。

世の中の人はどんなことにどれくらいの時間を使っているのだろうかと気になった。

 

 

 

 

 

自由意志は無いという話

人間に自由意志は無い。

これが私の持論である。

自由意志が無いことを裏付ける私なりの理論をまとめる。

私は二つの理論を持っている。

 

一つ目の理論:人は物質

まず人間の肉体は全て物質のみでできている。

それは一般的に人間の意思を司っているとされる「脳」も同様である。

そして物質は一定の化学や物理の法則に従ってしか動かない。

人間の脳も物質のみでできているのだから、一定の法則に従ってしか動かない。

よって人間に自由意志は無い。

 

これは本当にこれでおしまい。

でもこれではつまらないし直感的でもない。

もっと直感的に、自由意志が無いことを、次の理論で証明しよう。

 

 

二つ目の理論:人の意志は100%束縛されている

まず自由意志とはなんだろうか?

「自由」とは何にも縛られず、好きなようにやれるという意味だと思う。

よって自由意志とは何にも縛られず、好きなように思考できる意志のことだ。

だがそんな意志は100%絶対に存在しないのである。

 

いくつか例をあげよう。

考えてみてほしい。

①お腹が空いたからご飯を食べよう。

②眠くなったから寝よう。

③学校のテストで良い点を取りたいから勉強しよう。

④お金が必要だから働こう。

⑤困っている人がいるから助けよう。

⑥面白い映画を観て感動した。

⑦祖母が死に、葬式で泣いた

⑧殴られて腹が立ち、殴り返した。

⑨スリルを味わうためにコンビニで窃盗をした。

⑩健康のためにランニングを始めた。

これらは「何にも縛られず、好きなように」思考していると言えるだろうか?

 

言えない。

以下それぞれの思考を束縛している「理由」や「原因」を挙げていこう。

突き詰めればもっとあるが、長くなるので少しだけ。

①空腹という生理現象、人間の本能、人間の肉体、食料確保が可能な状況

②眠気や疲労という生理現象、人間の本能、人間の肉体、睡眠が可能な状況

③テストがあるという状況、勉強することが可能な状況、学校に通っているという状況

④生活に必要な物の入手に金が必要という状況、働かないと金が無いという状況。

⑤困っている人がいること、それを発見したこと、自身の良心。

⑥面白い映画の存在、その存在を知っていること、目が見えること、耳が聞こえること

⑦祖母の死、祖母と良好な関係だったこと、葬式に参加できたこと

⑧殴られたこと、殴り返せる状況だったこと

⑨退屈していたこと、コンビニがあったこと、道徳観念が養われていなかったこと

⑩運動によって健康を得られる人間の肉体、ランニングが可能な状況

 

など。

このように人間の思考は徹頭徹尾、100%「理由」や「原因」による束縛を受けている。

そしてそれらの「理由」や「原因」の発生にもまた必ず「理由」や「原因」がある。

そこに人間の「自由な」意志が介入する余地は無いのである。

よって人間に自由意志は無い。

 

 

自由意志が無いならなんなんだという話

人間社会は自由意志の存在を前提として運営されている。

それは当然のことで、自由意志は無いよ派の私もそれでいいと思っている。

 

自由意志が無いとするのは、「責任」が無いということと本質的に同じだ。

人間の全ての意志は「理由・原因」によって定められたものであり、本人の自由が介入する余地はないからだ。

だが当然、健全な社会運営のためには「責任」という神話は必要である。

果たすべき役割を果たさない者は得られる恩恵も少なくしなければ不公平である。

また、悪人は排除しなけば平和は崩壊するだろう。

 

そんな世の中で「自由意志は無い」と考えることは無意味に思える。

だが私は「自由意志は無い」と考えることには「救い」として意義があると思う。

 

どうしても頑張れない、どうしても真面目になれない、どうしても悪の道しか選べない。

そんな人間社会でゴミ扱いされる、ハグレ者たちがいる。

ハグレでない「幸運な真人間」であっても小さな後悔、大きな後悔を抱えている。

そんな悩める者たちがいる。

 

そんな人間にとって「自由意志が無い」というのは「救い」になるのではないか?

私自身もどちらか言えばハグレ者だし、あの時ああすれば...と後悔することもある。

だが自分の人生について悩んだとき「自由意志は無いんだから仕方ないさ」「最初から決まってたこと」と考えると、ちょっと気持ちが楽になる。

決まってたことなら仕方がないであろう。

 

また「自分のこの先の人生も全て決まっている」と考えるとけっこう前向きになれる。

何をしてもそれは全部そうなると決まってたのだ。

やりたくないことはやらない、好きなことしちゃおう。そうなると決まってるし。

でもやっぱ真面目にやりたい、頑張りたい、と思う時はそれも決まってるから頑張ろう。

 

人間に自由意志は無い。

ゆえに人生は後も先も初めから全部決まってる。

そう考えることで、客観的な評価はおいといて、自分の心は前向きになれると思う。

 

まあそう考えるかどうかすらも、初めから全部決まってることではあるのだが。

 

 

以上。

この記事の執筆に筆者の自由意志は一切介入しておりません。

 

反出生主義への反論への反論

まず反出生主義を知らない人のために、私なりの解釈で簡単に説明する。

 

「反出生主義」とは人間は生まれない方が良い。

という理論である。

人間の人生においての苦痛の多さを背景にしている。

勘違いしてほしくないのは「生まれない方が良い=生きてる人間も死ぬべき」

ではないということ。

生者はできるだけ幸せな人生を送れるようにすべきであり、あくまで新たな人間は生まれない方がいいとする考えだ。

 

私は反出生主義は正しいと思っている。

人間の人生には苦しみが多い。

もちろんも幸福もある。だが幸福を苦しみが上回るならその人生は苦である。

そして苦な人生なら初めから存在しないほうが絶対良い。

 

生まれるということは、幸福な人生になるか、苦しい人生になるかのギャンブルに強制的に参加させられることだと解釈できる。

「ギャンブル」というのがポイント。

人間の人生には努力ではどうにもならない運要素が極めて多いからだ。

というか「努力できるかどうか」すらも運が絡むので、実際は100%運である。

勝手にギャンブルに参加させられて、勝てればいいが、負けたら?

それほど理不尽なことはないだろう。

 

そんなわけで私は反出生主義者なのだが、先日、反出生主義への反論記事を見つけた。

午堂登紀雄氏なる人物が書いているようだ。

 

www.mag2.com

 

この反論記事、読んだところ言いたくなることがいろいろあったので、反論する。

午堂登紀雄氏の記事と一緒に読んで欲しい。

 

 

間違っている理由その1:人生に疲れて現実逃避している、への反論

この項は「反出生主義者がなぜその考えを持つに至ったのか」「反出生主義者の特徴」などを彼なりに分析しているだけである。

終始レッテル貼りのみに徹しており、反出生主義への反論には全くなっていない。

 

 

間違っている理由その2:苦痛は「本人がどう受け止めるか」次第、への反論

反出生主義は、その苦痛を受け止めるのを強いられる人間の生の在り方を批判している。

苦痛を上手く受け止められる者もいるが、苦痛は苦痛としか受け止められない者もいる。

それは本人の責任ではない。本人の意思ではどうしようもないことだ。

この項は「本人がどう受け止めるか次第」といっているが、実際には「苦痛を感じない者」の視点しか書いておらず、「苦痛を感じてしまう者」は無視しているだけ。

また、「その人の問題」であって「人類の問題ではない」といっているが、苦痛を感じているものが存在することはとても大きな人類の問題である。

最後の部分はたんなるレッテル貼り。

 

 

間違っている理由その3:苦しみも不安も「必要な感情」、への反論

苦しみも不安も不要である。

それを感じずに人生を全うできるほうが良いに決まっている。

「必要な感情」ではなく、「強いられる感情」というのが正しい

苦しみや不安があることで精神的な成長ができるといっているが、苦しみや不安は少ないほうが絶対に健全な成長が可能だし、人生は豊かなものになる。

貧乏人、病人、虐げられる者にとってその苦しみや不安は「必要」なのか?

裕福な者、健康な者、平穏に生きる者にはもっと苦しみや不安が「必要」か?

苦しみはそもそも「悪いこと」「いけないこと」「避けるべきこと」「忌み嫌うこと」ではない、などど言っているが、じゃああなたもっと苦しめよという話である。

もちろん実際には苦しみを避けるのは大切なことである。

午堂登紀雄氏も「理由その5」で、苦しみや痛みがあるならどうすれば避けられるかを考えるのも充実した時間などと言っており、完全に破綻している。

 

 

間違っている理由その4:人間が存在しているのには意味がある、への反論

この項はかなり適当に書かれている。

意味があるから存在している、というがその「意味」とはなんなのかきちんと説明できておらず、実に空虚な理屈になっている。

人間の存在を否定できるのは神様だけなどと存在も疑われるものに話を放り投げたり、(知らんけど)などと書いている辺り、自分の考えを全く掘り下げていない、実に無責任な文章。

そんな「意味」は「無意味」であり、苦しむ人間への救いにはならない。

しまいには「いろいろな立場の人間が生まれるのは必然」などと、不幸な人間が生まれるのを仕方ないと肯定している。

「苦しみから逃れる」というメリットは人生を謳歌するという巨大なメリットの前には霞むというが、これもまた人生を謳歌することができない不幸な人間の存在を無視しているだけ。

 

 

間違っている理由その5:「みんないなくなればいい」は思考停止、への反論

この項はたんなるレッテル貼りで、まるで反論にはなっていない。

反出生主義者は何も考えていないと決めつけているだけ。

反出生主義者は最初に述べたように、生きている人間についてはできるだけ幸福な人生を送れるようにすべきという考えである。

ゆえに当然ながら自身の人生を充実させるために日々考えて努力しているし、他者を思いやり助けることだってする。

その上で、新しく人間が生まれることは無いほうが良いとも考えているのである。

 

 

間違っている理由その6:子どもが欲しいのは親のエゴだが、産まないのもまたエゴである、への反論

まず「産まないエゴ」という言葉はおかしい

エゴというのは他者の権利や意思を無視した利己、自己満足と言ったものであろう。

他者に迷惑をかけうるから嫌われるものである。

「産まないエゴ」とは、産んでいない子どもに対してのものになるわけだが、そもそも産まれていない人間は存在もしていないのだから迷惑をかけようがない

そして、午堂登紀雄氏はなぜ産まないことがエゴになるのかについての理論の裏付けは全くできていないように見える。

 

まず前半部は「間違っている理由2〜4」の反復なので反論も省略。

そして後半で書いている「子どもが素晴らしい人生を味わえないこと」が「子に対する産まないエゴ」になるという理屈だろうが、その子はそもそも存在していないのだから、何の問題も無い。

生きている人間から素晴らしい人生を奪い取るなら、それは卑劣な悪であろうが。

最後には「私自身が無職・貧困から成り上がっただけに、おそらく生存者バイアスがあるとは思います」と予防線を張っており、午堂登紀雄氏自身も自らの理論にあまり自信も責任も持っていないのが窺える。

 

 

間違っている理由その7:「生き方を選べる」のが最大の民主主義、への反論

この項はただの議論の放棄。

みんながそれぞれの考え・それぞれの生き方があって良い、なんてのは言うまでも無い。

議論の大前提である。

その上で互いの考えを主張し合い、議論するのである。

反出生主義者もそのスタンスで議論している。

大前提を持ち出して、「人間にはそれぞれの正義がある。私は間違ってると思うから間違ってる。」で済ませるならべつにそれでいい。

だがそれは議論の放棄であり、最初から「反論」を名乗って議論に参加すべきではない。

この項は「反論」ではなく議論の放棄である。

 

 

午堂登紀雄氏の記事で部分的に共感したところ

氏は記事の中で「子どもに遺産を遺す気はない」と、堂々と子どものためを思った正しいことだと書いている部分があったので、毒親なのかと思っていた。

しかし最後のほうの「子どもから『産んでくれと頼んだ覚えはない!』と言われたら」の項はけっこう良いこと書いていると思った。

間違った対応についてはちゃんと理解しているし、子どもなりに不安や不満を抱えたものだとも言っているところはきちんとした親に見えた。

自分が言われた時にどうするかについても前向きな内容で共感できた。

「ただし、権利と義務は〜」のあたりは説教くさいが。

 

 

以上である。

書いていて、人と人がわかりあうのは難しいのだと思った。